十文字和紙のはなし

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 横手市十文字町睦合。ここでは江戸中期(1700年代の終わり頃)には集落の大半で大正時代になっても十数軒が紙を漉いていました。
紙漉は一般に山間部で盛んなものですが、ここは雄物川に沿って広がる水田地帯。雄物川の豊かな水は土壌を肥やし、良質な楮を育てました。
 農閑期になり、野にも初雪の便りが届く頃、家族あげての紙漉作業が始まります。 
清男さんの祖父の代から続く佐々木家の冬の風物詩です。
自家で育てた楮(こうぞ)の刈り取りから、実に十数工程の作業を経てやっと紙を漉ける段階に至ります。
「あまりに手間がかかるものでよ。」紙漉は清男さんのこの一言に尽きるのです。
二百年以上前とほとんど変わらないやり方で漉かれている十文字和紙からは手しごとの温もりが伝わってきます。
十文字町植田にある横手市十文字町西支所(農村環境改善センター)には「紙漉の里」にふさわしく、和紙漉きの設備があり、1994年(平成6年)から清男さんの手ほどきを受けながら、毎年十文字西中学校の二年生が先輩のために心を込めて漉いた和紙の卒業証書が三年生に授与されています。
平成22年度から西中は十文字中学校に統合されましたが、この伝統はそれ以降も毎年引き継がれています。



紙漉の作業工程
 
    楮刈り→②楮の枝払い→③楮蒸かし→④皮はぎ→⑤皮干し→⑥粗皮とり→⑦水洗い
    寒ざらし→⑨煮立て(ソーダ灰添加)→⑩すじあげ→⑪楮たたき→⑫ノリウツギの木でノリ作り→⑬紙漉→⑭水切り→⑮乾燥

十文字和紙の作業工程をご覧ください。
 

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 秋田県内の和紙づくりの里

秋田県内には和紙づくりを行っている工房が4カ所あります。(20115月現在)
作家、保存会、法人など、その活動形態もさまざま。地域に根ざした特徴ある活動を展開しています。

●十文字和紙工房(横手市十文字町谷地新田字中村93)
℡0182-44-3520

●鎌足和紙工房  鎌足和紙の会(仙北市西木町小山田字鎌足
℡0187-47-3535(かたくり館)

●成瀬和紙工房(横手市増田町湯野沢字大道添48(株)工房成瀬)
℡0182-45-2829

●出羽和紙工房(010-1211 秋田市雄和椿川館の下125



◇◇ お も し ろ 和 紙 の 話 ◇◇
 

楮(こうぞ)の花

 

      撮影2016519日  秋田県横手市十文字町

長いこと楮の木は見ていますが、よく楮の花は何色?とかどんな花が咲くのとか聞かれます。しかし、これまで花は見たことがありませんでした。
先日初めてこんなにたくさんの楮の花を見て写真におさめることができました。
場所は十文字越前泉川さんの畑。
楮は毎年11月末にそのシーズンの和紙の原料として刈り入れしますが、撮影したこの木は3年刈り入れしないでそのままにしていた木だそうでかなりの大木です。
色は赤ピンクそんなに大きくありません。赤ピンクのパヤパヤヒゲ部分も含めて直径2~3センチくらいの大きさでとてもきれいです。この後実になると思います。
葉っぱもまだクワの葉の形にはなっていません。
毎年刈ってしまう楮には花はつくことがなく、これまで見たことがなかったのかもしれません。

 
 
 
 

  

  イザベラ・バードが見た日本の和紙

                     (2016年4月20日再掲載)


イザベラ・ルーシー・バードは、19世紀後半に世界各地を巡ったイギリスの旅行作家です。  1879年(明治11年)五月に来日。東京・横浜滞在から 日光、福島、新潟、山形、秋田、青森、北海道を3ヶ月かけて旅し、訪ねた先々の見聞・体験を繊細なスケッチとともに


記録し、郷里のイギリスの妹宛に手紙を送っています。

これをもとに旅行記としてイギリスで出版され、好評を博しました。
その90年後の昭和48年に日本語に訳した「日本奥地紀行」(高梨健吉訳 平凡社刊 )
が出版されました。
私は最近になって、完訳「日本奥地紀行」金坂清則訳注 やイザベラ・バード「日本の未踏路」高  畑美代子訳・解説の書から、バードが福島の高田近郊の農家で見聞きした和紙のことを詳細に記述している部分を見つけ、興味深く読みました。
(上記では和紙のこの部分をはじめ、多くの箇所が削除されている)               
完訳「日本奥地紀行1「横浜-日光-会津-越後 」(全4巻)金坂清則訳注(2012321日初版第1刷発行 平凡社刊)からその部分を紹介します。
 
日本では紙が重要な役割を担っている。高田の近くのある農家(23)を紹介してもらい、紙のことを少し学ぶことができたのはとてもうれしいことだった。非常に礼儀正しい人でもあった。楮(こうぞ)(24)はポリネシア人が「タバ」という紙布(25)の原料にする植物「梶」(かじ))と同じである。日本ではこの栽培が非常に重要な産業になっている。藤空木(ふじうつぎ)(26)や芙蓉(ふよう)(27)の仲間も楮と混ぜ合わせるのに用いられるが、その量はごくわずかである。
作られる紙「和紙」の種類は60種類以上あり、その用途は通例によって決まっている。
  壁、窓、湯飲み、懐紙、提灯、紐、包み紙、合羽、笠や行李の覆いは言うに及ばず、家庭のあらゆる目的に使われるし、専門家もあらゆる目的のために使う。消費量は膨大になる。私たちだとリント布や包帯・布地を使うような場合にも紙を使うのである。非常に強靱なので簡単には破れないし、実にすばらしく繊維が透けて見え、この上なく優美な「縮緬」(ちりめん)のように柔らかい最高級品でさえも、よほどのことでないと破れない。立派な金蒔絵細工(きんまきえざいく)を包むにはこの紙がよく用いられる。
この農家では自家用に少量の紙を作っていた。主人の田中(28)の話だと、楮は五フィート「1.5メートル」になるまではのび放題にしてから毎年刈り込む。そして切った木は数日間水に浸した後、樹皮をはぎ取り、灰汁で煮、上質紙の原料にする内側の白い部分を外側の樹皮と分離する。田中は一番よくない樹皮だけを使っている。ハワイ(29)でもそうだったが、樹皮は叩いてパルプにし、少量ずつ型枠にとり、天日干しにする。
田中は目の粗い灰色の紙を作っている。(30)この紙は一番貧しい階層の人々が使う木枕を柔らかくする当て物のカバーに使われる。長さ14インチ「35.6㎝」幅11インチ「25.4㎝」の紙の束の三枚の売値はわずか1ファージング「1/4ペンス」(31)である。
この後は水田地帯を5時間にわたってとぼとぼと進んだ。気が滅入った。湿気の多い気候とこのような旅の仕方による疲れのために健康状態が悪くなってきており・・・・

 
23)~(31)の説明   一部省略

23)高田の近くの農家は高田の東南2キロの西勝村にあったと考えて手間違いない。
この村では明治初期にはすでに衰退していたようであり、バードの記述からもそれが窺 われるが、江戸時代には西勝紙の製造で知られ、最盛期には村の半数24戸 の家が紙漉を 行っていた(会津高田町史編纂委員会編)西勝村には高田に入る前に通過しているが、 田中仙三の同行を得て初めて視察できたわけであり問題ない。バードが疲労の極みにあ り、また時間にゆとりがなかったにもかかわらず、この見学を行ったのは、和紙につい て見聞したい意向が事前に地元に伝えられていたからであると見なければならない。と されている。
25)タバというカジノキの皮を石で打って繊維だけにして作る紙に似た布(タバ布)  のこと
26)藤空木(ふじうつぎ)本州・四国の日当たりのよい谷間の林縁などに生える落葉性   低木現在のノリウツギのことか? (渡辺弘子考)
27) 芙蓉 アオイか科芙蓉族の落葉低木樹皮は製紙に用いられるが、芙蓉の自生地は九   州以南の東アジアの暖地であり、会津の和紙製造に用いられるわけではない。 
  トロロ葵のことか (渡辺弘子考) 
30)バードが記す用途は厚めで強靱である西勝紙とこの用途は矛盾しない。
31)約5厘 と極めて安い

藤空木も芙蓉も和紙漉きには欠かせない糊(ねり)としての使用のものだと思われます。(渡辺弘子考)
イザベラバードの「日本奥地紀行」では山形の置賜盆地の美しさをアジアのアルカディアと最大級の讃辞を贈っていることで知っている方が多いと思います。興味を持たれた方は完訳「日本奥地紀行」 を読まれることをお勧めします。たちまちあなたもバードと一緒に当時の東北農村の暮らし、文化の旅に出かけられるでしょう。
現在の全国各地の伝統手漉き和紙は和紙漉きもバードが記述したものとほとんど変わらないやり方で漉かれていることに、私は驚きと感動を覚え、改めて和紙のすごさを感じます。

 

 

2014年11月27日ユネスコは、「和紙 日本の手漉和紙技術」を無形文化遺産に登録しました。  うれしいことです。
登録されたのは国の重要無形文化財に指定されている細川紙(埼玉県) 本美濃紙(岐阜県) 石州半紙(島根県)
いずれもクワ科の楮(こうぞ)の繊維だけを原料に手漉きの伝統的製法を伝えているものです。
秋田県横手市の十文字和紙も楮(こうぞ)の繊維だけを原料に、佐々木清男さんが昔ながらの手堅いやり方で伝統を今に引き継いでいます。原料の楮も総て自家調達。今年の紙漉も3月末で終了。刈りを終えました。今年の楮は量・質とも上々です。感謝 感謝。

今一度手漉き和紙の作業工程をご覧ください。 

  
 和紙のUVカット和紙には 紫外線をカットする力があるの?  
                            (2014.5.27掲載) 
     
植物の種子には紫外線をカットする成分が種子皮に含まれていて内部を守っています。
のことは天然素材の靱皮(じんぴ)繊維を原料とした和紙にも言えることです。
     
洋紙のようにいろいろな化学物質を加えた洋紙にはUVカット効果は見られませんが
天然素材だけの和紙には植物本来の紫外線をカットする成分が繊維の中に残っています      
セルロースやヘミセルロースと一緒に含まれているのです。つまり、和紙のUVカット
 効果は本来の植物の自己防衛成分を私たちは利用したことになるのです。
昨今、新築住宅では障子のある部屋は少なくなりましたが、和紙の障子を通った光は
紫外線の量が少なく、目に優しくて健康にも良く、精神を安定させてくれます。
 
 出典:酒井理化学研究所の実験結果(通過紫外線量と照射紫外線量検査)
 季刊和紙№18紙の未来をさぐるより
 
添加物を加えない靱皮繊維で漉きあげられた十文字和紙で作った帽子や日傘は    
   UVカットの能力を十分に持ち合わせた商品と言えますね。




 

◎和紙とコンニャクが太平洋を横断?

 
 
  世界最初の大陸間弾道兵器・風船爆弾のはなし  「フ号作戦」風船のフ 

 ○太平洋戦争末期昭和19年(1944年)11月~20年(1945年)4月まで製造。発射地は鹿島灘に面した茨城県大津、福島県勿来(なこそ)千葉県一宮
 
○打ち上げ予定数15,500個打ち上げ数9,300個(月平均2,500個)
 米国・カナダ・アラスカ到着が確認されているもの285件(285/9300率3%の到達率でうち死亡が確認6人)

○日本上空の亜成層圏高度1万メートルを時速200~300キロでジェット気流に乗り太平洋上9千キロを飛び、打ち上げ後3日半で大陸上空に到達。風船(直径10メートル)に穴が空き落下する仕組みになっていた。

どうやって作られたか?

○高知・愛媛・埼玉・鳥取・福岡・石川の6県生産量は高知40愛媛30その他30の割合で四国が中心。軍事工場で2ヶ月滞在し特訓(高知の山岡茂太郎氏)された。
 当時この分野に携わった人たちは軍事機密として他言不可。記録も焼けてほとんど残っていない。

○コンニャク糊塗布後乾燥→炭酸ソーダ水溶液に入れ煮沸(アルカリと反応させソーダマンナンに変換)→ 水洗い→柔軟化するためにグリセリン液に入れ→乾燥→なめし革に似た透明度の高い和紙の完成。原紙の大きさ60㎝×160㎝。 風船1個に3千枚という膨大な和紙を必要としたという。
 直径13メートルの球体レンゲの花弁状に裁断しコンニャク糊で貼り合わせ防水ラッカーを塗り完成。女子学生が素手で行った。手は腫れ上がり指紋が消えた。コンニャク糊は金属片が入らないように4斗樽を使用した。

○大量の損紙 (端紙)は特攻隊の飛行機の燃料補助タンク飛行機のタイヤ等検討された
爆弾は日本には現物が残っていない。ワシントン市スミソニアン博物館宇宙航空博物館に砂のう部分だけ展示されている。(1990年時点)

        出典 和紙の博物誌  小林良生 平成7年(1995年)初版

  このふ号作戦、当時の軍の誰かが考えた真剣な軍の作戦だったのでしょうが、すごいお 話ですね。(2011.8.16掲載)
 
◎紙衣(かみこ)の話
紙衣(かみこ)は和紙(主に楮紙)を揉んで柔軟にし、布状にしたものを仕立てたもので、紙布または紙子と呼んでいます。
奈良の東大寺の二月堂で行われる「お水取り」は天平時代から千年以上もの長い伝統を持つ法会で、僧の着用する衣服の紙衣は、僧侶達の手によって作られています。
これには宮城県の白石和紙が使われています。
          (1988年 生活の中の和紙 前秋田大学教授藤枝アイ著より)      
◎紙布(しふ)の話
秋田には「かぜぞよ」とよぶ紙布があります。かぜそよは庶民たちにとって大切な防寒着であったようです。男鹿地方では作業着を「しぼ」といい、「しぼ」の語源は「しふ」「紙布」とすれば、冬の浜風の冷たい漁村の作業衣として保温性の高い紙布が着られ「しぼ」と呼ばれたものだろう。(1988年 生活の中の和紙 前秋田大学教授藤枝アイ著より)